歴史と由来

海龍王寺の歴史と由来

飛鳥時代に毘沙門天を本尊として建てられた寺院を、天平3年(731)に光明皇后により海龍王寺としてあらためて創建されました。嵐の中唐より無事に帰国を果たした玄ムが初代住持となったことから遣唐使の航海安全祈願を営むと同時に平城京内道場の役割を果たすことにもなり、玄ムが唐より持ち帰った経典の書写(写経)も盛んに行われました。
平安時代となり、都が平安京に移ると平城京は衰退し、海龍王寺も同様に衰退していきましたが、鎌倉時代になると真言律宗を開いた興正菩薩叡尊により伽藍の大修理を受けると戒律の道場や勉学所として栄え、鎌倉幕府からは関東御祈願34箇寺に選ばれました。しかし、室町時代になり応仁の乱が起こると奈良も影響を受け、海龍王寺一帯も戦場となってしまい打ち壊しや略奪の被害を被ったことから再び衰退の一途をたどります。江戸時代になり徳川幕府から知行百石を受けることとなり、本堂や仏画の修理が行われると同時に「御役所代行所」としての役割を果たしますが、明治時代の廃仏毀釈の際に東金堂や什器を失うという大きな打撃を受けます。
昭和28年に松本重信が特任住職として海龍王寺に入寺。かっては、貞治4年(1365)第13代信尊和尚、康暦元年(1379)第15代興泉和尚、長禄元年(1457)第28代元澄和尚、天文7年(1538)光淳和尚、明和3年(1766)高瑜和尚 と、海龍王寺から五名の西大寺を長老を輩出しており、真言律宗の中でも筆頭格の寺院であった輝きを取り戻すべく自身の手で復興を始め、昭和40〜42年には「西金堂」「経蔵」の解体修理をはじめ「国宝・五重小塔の返還、西金堂への安置」、本堂の修理及び伽藍の復興に心血を注いだゆえに、現在の海龍王寺の姿があります。
隅寺という呼び名の由来については、江戸時代に書かれた大和名勝誌にも「平城宮の東北隅ゆえに隅寺と号するのであり、世に法華寺の隅寺と号するのは誤りなり」と記されています。

旅行・留学の安全祈願

天平時代に遣唐使として中国に渡っていた海龍王寺初代住持の玄ムが、天平六年(734年)十月仏教の経典を網羅した一切経五千余巻と経典に基づいた新しい仏法との二つを携えて中国の港を出発しましたが、航海の途中に東シナ海で暴風雨に襲われ四隻の船団のうち、玄ムが乗った舟だけがかろうじて種子島に漂着することができ、翌年三月、無事に奈良の都に帰朝することができました。このとき、玄ムの乗船に収められていた一切経の中に「海龍王経」といわれる経典が蔵経されており、狂乱怒涛の中、この経典を一心に唱えたことで仏法を守護する善神である海龍王が、我が国に一切経と仏法とを無事にもたらせるために玄ムの船を護ったのだと人々に信じられ、これ以降、海龍王寺において遣唐使の渡海安全祈願を営むようになりました。 このことから、現在も旅行や留学で海を渡る多くの方々が参拝に訪れており、参拝された方々の渡海の安全を日々祈願しています。