歴史と由来

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興正菩薩叡尊(こうしょうぼさつえいそん)

興正菩薩叡尊は建仁元年(1201)現在の大和郡山市に生まれました。十七歳の時に京都醍醐寺で出家をすると同時に、東大寺戒壇院で受戒を受けて僧侶しての道を歩みはじめます。嘉禎元年(1235)西大寺に入られましたが、嘉禎二年(1236)から暦仁元年(1238)の間、海龍王寺に居住することとなり西大寺に戻られた後も、法華寺において経論の講説を行う際は当寺において止宿をされました。その後、叡尊の高弟が住するとともに西金堂において戒壇を起こしたことで、戒律の道場として栄え、五重小塔と西金堂の大修理、経蔵の建立、金銅舎利塔の造立なども行われました。今日の海龍王寺が在るのは、ひとえに叡尊上人に復興を受けたおかげです。

玄ム(げんぼう)

奈良時代、義淵より唯識を学び、霊亀二年(716)第八次遣唐使の一行に加えられ渡唐、智周大師について法相の教学を極め、玄宗皇帝より紫衣を賜りました。在唐十八年の後、天平六年(734)帰国の途に就きましたが途中で暴風雨に襲われるが、かろうじて種子島に漂着、仏像と一切経五千余巻を無事に持ち帰ることができました。玄ム僧正が唐の都で得た知識が日本の仏教に大きな影響を与え、国分寺の建立や大仏造立による仏教で国を治める「鎮護国家」の礎が築いたことと、持ち帰った一切経の写経の推進がなされ「写経事業」の発展にも功績を残しました。唐の都にあった内道場を宮中に開いたことも彼の特筆されることです。

海龍王寺と内道場

帰国後、玄ム僧正は唐の都にもあった内道場を宮中に開き、海龍王寺を内道場と定めました。内道場とは宮中の仏堂であり皇帝家のために祈願を修するとともに、天皇皇后をはじめとする全ての宮人が名僧知識について講説を聴くところです。大きさこそ市中の大寺院に規模には及ばなかったものの、皇帝家のための寺院にふさわしい贅を尽くした造りであったことがわかっています。海龍王寺は内道場として、多くの宮人に仏教の教えを説かれた場所でもあったのです。